コラム『家族だって他人』第42回 星空に願いを
大昔、私たちのご先祖様は真っ暗な中、空を見上げ、光る星々をつなぎ合わせて色々な星座を作ったらしい。
私たち人間は、このように意味のないところに意味を見出そうとする心理がある。その心理は、ドイツの心理学者によって「アポフェニア」と名付けられている。アポフェニアとは、
『無作為あるいは無意味な情報の中から、規則性や関連性を見出す知覚作用』
のことである。
知覚作用の結果とはいえ、無意味な情報ですら、人は規則性や関連性を見つけ出そうとしてしまうのだから、少し意味があったりしたら、ますます関連性を求めたくなってしまうことは、世の中には多いのかもしれない。
例えば、「家族だから」という言葉で、助け合うのは当たり前、親が子どもを育てるのは当たり前、子どもは親の言うことを聞くのが当たり前、と。
最近は、虐待のニュースも随分、見聞きするようになった。そのようなニュースを見ながら心を痛めつつも、まだまだ多くの人たちが、親子なら別々に暮らすのではなく一緒に暮らせるようになるのが一番良いと当たり前に思っていたりするだろう。小さな子どもは、母親が育てた方が良いと思っていたりするのと同じように。
しかし、その当たり前は、本当に当たり前なのだろうか?
『家族』という言葉は、色々な意味を持つけれども、家族と言っても千差万別。色々な家族のカタチがある。そこに、毎回おなじような規則性を、機械的に付与してしまって良いのだろうか。当たり前という言葉で、個々の事情を、本当にあるべき姿を、個人の幸せを、考えることを止めてしまってはいないだろうか。
夜空に浮かぶ星一つ一つが、別々の星だとしても、星と星をつないで線を引き、まるで一つの星座であるように幻想を抱く。それと同じように、家族が別々の個人であったとしても、家族であることの絆を求めその絆を信じようとしているだけ。もしかしたら、家族というものも、星座と同じ、人間が勝手に作り出した、ただの幻想なのかもしれない。
隣同士にあると思われた星々は、宇宙から見たら何千、何万光年と離れ、全然隣にあるわけではない。家族というものも、少し見る場所を変えれば、全然つながっていないバラバラなもので、仲良く常に自分の隣にいてくれるだけの存在ではない。
そう考えれば、もしあなたにとって、家族のきずなが絆ではなく、ただの鎖だったとしたら、さっさと引きちぎってどこかに行ってしまっても、構わないのではないだろうか。
また、逆に、たとえどんなに離れて暮らしていても、心の中にその星と星をつなぐ線と同じような絆を意味を、持ち続けていれば、それは一つの家族のカタチなのだろう。
今、ここにただ生きている私たちは、きっと、ご先祖様が自由に空に線を引いたように、もっと自由に自分を色々な人たちとつなぎ合わせ、意味を持たせ、新しい絆を作っていけるはずだ。それを、『家族』と言うとしても、言わないとしても。
(文責:K.N)
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