コラム『家族だって他人』第4回 優しい娘たちへ
かつては日本でも、家を継ぐ者として男の子の誕生が望まれたが、今の時代、お世継ぎとしての男子誕生が真剣に望まれているのは天皇家くらいだろう。家というのが物理的に重いもので、背負って歩かなければいけない、というのではないのだから、腕力や体力に劣る女子でも継ぐことに何の問題もない。家を継ぐという考え方自体が古いという主張もあるだろうが、名字を遺す、味付けを受け継ぐ、家族の思い出を語る、と言ったレベルでの「継ぐ」も含めると、古い考えだ、と切り捨てるべきでもないと思うので、この議論はまたの機会に。
家を継ぐのが男子でなくてもいい、となると、跡取り息子を産むことから解放された親たちの望みはどうなったのか。インターネット上でいくつかの調査を見てみると、女の子を望む親の方が多いそうだ。なぜ女の子を望むかと言えば、可愛い服を着せたい、一緒に買い物や旅行をして友だちのように過ごしたい、女の子の方が大人になってからも何かと交流が出来そう、だからだそうだ。娘と一緒に過ごすことには息子とは違う楽しみがある、それも娘との方が長く楽しみが続く、と考えているようだ。
ただ一緒にいるだけではなく、その時には、親の話し相手になる、親の気持ちを理解する、などケア的な要素が期待されている。要するに、将来にわたって心理的に自分をケアしてくれる存在として娘の方が期待できそうだから、娘が欲しい、となる。
娘に「ケアすること」が求められるのは、女性という属性にケア役割が求められていることと無関係ではない。社会に出て稼ぐことを期待される息子たちが、それが出来なくなった時に殻に閉じこもると書いたが、娘たちが期待されるのは、もっと抽象的な「優しい」ことだから、働けなくなっても、結婚して別の家庭を持っても、その役割からはなかなか降りられない。降りるためには親と縁を切る、くらいの覚悟が必要で、親を捨てた娘という烙印をも覚悟しなければならない。そんなことが出来る人がどれだけいるだろうか。
「優しい」は親だけではなく、日本社会全体が女性に期待することでもあるので、娘たちはいつの間にか「優しくあるべき」という価値観を内在化している。それ故に、親に優しくないことをすることには自動的に罪悪感を覚えると言っても過言ではないと思う。
だが、「優しい」とはどうあることだろうか。相手のためになることと、相手が望んでいることが違う場合、どちらをするのが優しい、のだろうか? 2人の人物が喧嘩したら、どちらの味方をしても、味方された方にとっては優しく、味方されなかった方にとっては優しくない、と思われるだろう。あるいは、他者に優しくすることが、自分に優しくないこともあるだろう。前述の親子の話であれば、いつも両親を気遣い、多くの時間を両親と過ごす優しい娘は、その時間に出来たかもしれない様々な経験を逃し、自分の可能性を減らしているかもしれない。
親が自分の子どもに優しくされたいと望むことは、なにも悪いことではないが、その「優しい」は、親のことを気にかけてくれる、優しい言葉をかけてくれる、会いに来てくれる、親の話を聞いてくれるなどで、それらは親にとって嬉しいこと、都合のいいことであり、優しさとは大して関係ないかもしれない。
優しい娘たちへ。自分の都合で優しさを求めてくる親に、常に優しく居続けることなんて出来なくていい。自分を取り巻く全方位の人に、優しくすることなんて無理だ。
みんなに優しくあろうとして、何が大事かを見失わないで。あなたの人生には誰も責任を持ってくれない。だから、誰かの都合ばかり考えて、優しくあることばかりに気を取られないで。優しいだけがいいことじゃない。強さも、賢さも、逞しさも、明るさも、独創性も、同じくらい尊いあなたたちの資質だ。あなたの人生はあなたのものだから、好きなことをして、思い切り生きよう。そんなあなたを私は心から応援する。
文責(M.C)
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