コラム『家族だって他人』第35回「機嫌の悪い私」を知ろう」
私には、急に物寂しくなって、誰からも、誰にも、自分が大切にされていないように感じる時がある。家族関係で疲れた時など特に(心理師も家族のことで悩みます普通に)。
こういうことを言うと驚かれるのだが、実は私はあまり怒り慣れていないし叱り慣れていない。慣れないことをすると、心身ともに余計なところに力が入るので大変疲れる。しかも相手が家族、それも子どもともなると、言葉選びや口調の加減を考えなくてはならず、大変気を使うのだ。結果、心身ともに疲れてしまってくったりしてしまう。そして目一杯甘やかされたい気分になるのだが、大人の自分を甘やかしてくれる人など周囲にはおらず、余計に無い物ねだりが募って一人で拗れる。悪循環である。
ここまで頑張って叱ったところで、自分の叱責が子どもの成長に繋がることなど稀で、もし成長に繋がったとしても、そう感じられるようになるには最低でも月単位、長ければ何十年単位の時間がかかるし、その時その時で
「ああ言えばよかったのでは」
「こう言った方が伝わったのでは」
などと思い悩んで、子どもの成長への自分の貢献など目に入らないだろう。それにそもそも叱ったことが成長に繋がることなどないのかもしれないなどと考え始めるとドツボである。
この状態に対する特効薬は今のところなく、とりあえず惰眠を貪ったりこうして書き物に没頭したり、家人に話を聞いてもらったりするのだが、長く付き合ってきている家人にアドバイスなどされると、ドツボどころか図星を刺されて精神的には即死、ということもある。私の場合、読書や映画鑑賞などもいいかと思ったことがあるが、時間の捻出が難しいし、この状態に至るとインプットはあまり効かない。それどころか考え過ぎてしまうきらいがあるので避けている。
ところで最近よく、大人ならば自分の機嫌は自分で取れるようにしようといった言葉をSNSなどで見かけるが、これは実はなかなかに難しいことなのではないかと思う。
要は自分の機嫌が悪い時にそれを人の所為にしたり、それを理由に八つ当たりをしたり、機嫌の悪さを盾にとって人を振り回したりしなければ良いわけで、これらのことと、自分で自分の機嫌を取ることはまた違う作業ではないだろうか。
私とて
「あなた疲れてるのよ」
と二昔前のアメリカンドラマよろしく自分で自分をねぎらうくらいしか手がないのはいつものことである。状況のリセットボタンなどがあれば押してしまいたいが、そんなものもないので何ともならない。
それでも、自分の機嫌を取れなくても、自分の機嫌の良し悪しがわかっているというのは重要なことである。
「あー、今自分はものすごく機嫌が悪いな」
と分かっていれば、少なくとも相手にそれを伝えることができる。家族や親しい相手だとつい言わずとも分かってくれると思い込んで、不機嫌そうに黙ってむっつりしてしまう人もいるが、近しい相手だからこそ敢えて
「ごめん、今無理」
「調子悪いですとても」
「触るな危険」
と表明する必要があるのではないだろうか。
親も子も生き物であるしそもそも他人である。親にも子にも、夫にも妻にも、機嫌の良い日もあれば悪い日もあり、疲れている日もあれば絶好調な日もある。しかしそれを他者が推し量るのは、これが意外と難しい。
であれば、最初から自分で自分の状態を感知して表明してしまえば、余計な軋轢は避けられるのではないか。言わなくてもわかるだろう、という態度こそ、自分の機嫌で他者を振り回してしまう大元にある悪しき甘えではないかと思う。
自分の機嫌を取るのはまず自分の機嫌を知ってから。自分で取れそうな機嫌ならそうすればいいし、寂しい時や精神的に疲れてしまった時には、気心の知れた誰かに優しくケアされるのもいい。
「優しくしてほしい」
といい大人が言うのは恥ずかしいような気もするが、疲れた心は水を含まないスポンジのようにスカスカだ。そんな時には甘えたっていいじゃないか。子どもは大人に甘えられたら一番いいだろうし、パートナーがいる人はパートナーにケアしてもらえたら心が潤いはしないだろうか。大切な人にケアしてもらえるということが、私たちには必要だ。
けれど、そんなふうにケアしてくれる「誰か」がどうしても思い浮かばない時には、私たちカウンセラーがいることを思い出していだだければ僥倖である。
(文責:C.N)
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