コラム『家族だって他人』第38回 時々犬になってみよう
「両片思い」
という言葉がある。両思い、ではなく両片思い。主に恋する二人が互いに相手の気持ちを推し量りかねて、自分に相手の気持ちは向いていないと思っているがその実は両思いである、という状態をいう。切なくも大変秀逸な言葉である。
最近、人間関係のモヤモヤはほとんど全てこの両片思いが関係していると思えてならないことがままある。「愛の凸凹」でも述べたが、親が与える愛の形と、子どもが望む愛の形が必ずしも一致するとは限らない。これも一つの両片思いだろう。実はパートナー同士でも友人同士でも、これと同じ現象はありふれたことではないだろうか。
そんなことを思いながら愛犬の散歩をしていたら、犬にはどうも両片思いはないらしいことに気づいた。
犬は大変わかりやすい。うちの犬はブラウンアイで麻呂眉の、一見きりりとした、見るからにハスキーな見た目のハスキーなのだが、中型犬の中でも小柄な方である。それでも小型犬よりはもちろん大きいので、チワワやポメラニアン、トイプードルなどの小型犬には大抵ビビられて吠えられるか逃げられる。誇り高い和犬にも無遠慮に遊びかかって、大抵
「無礼者!」
と叱られる(もちろん言葉は想像ですが)。それでもうちの犬は落ち込まない。名残惜しそうに振り向きはするが、次に別の犬と出会う頃には忘れているらしく、相手が自分に気づくまで、その場に伏せて待っていたりする。そうするうちに、自分より大きい犬相手でも遊んでくれるガッツのある小型犬や
「いいぞいいぞ遊んでよし!」
と誘いに乗ってくれる柴犬に巡り会えたりするのだ(何度も言いますが犬の言葉は想像です)。
うちの犬は、個別に仲を深めることについてはそこそこ諦めがいいものの、相性の良い犬との出会いに期待することはやめない。吠えられても唸られても、一応挨拶には行こうとする(そして我々飼い主に止められる)。空気が読めないと言われればそれまでだが、犬たちの姿を見ていると、ヒトもこうだったらストレスの49%くらいは無くなるだろうなあと思うのだ。好き嫌いが明確で、そのことを表明することに恐れも後腐れもない。犬は、ヒトも含めた他者との関係において、大変ストレートだ。撫でて欲しければ自分から撫でてもらいに行くし、人恋しければ自分から近づいていく。大変分かりやすいし、自分の好きな人に好かれる方法を心得ているなあと思う。私のようなモフモフ好きなど、ちょっと愛想よくされたらイチコロである。我ながらチョロい。
犬にはヒトが用いるような明確な言語はない。だからストレートにならざるを得ないのかもしれないが、我々人間だって、好きだとか大切だとか美味しいとか恋しいとか、せめてそういったポジティブな感情くらいは犬に倣ってストレートかつシンプルに表現しても良いのではないかと思う。
作ったものを美味しいと褒められて、嬉しくならない人はいない。気持ちがすれ違ってしまったり遠ざかったりした相手でも
「あなたのこういうところが好きだ」
と言われたら、心にじんわり来るものがあるだろう。
特に家庭には、とても好ましいし素敵だけれど、あるのが当たり前すぎて気づかないことがたくさんある。それをわざわざ言葉にして伝えるのは照れくさいこともあるかもしれないが、それでもあえて言葉にのせるのが大切なのだ。
自分の大切な人に大切にされる秘訣は、自分からその人を大切にすることだと、犬たちのやりとりを見ているとしみじみ思う。返報性の原理、などとわざわざ心理学の専門用語を用いなくても大変分かりやすい。
犬にあってヒトに無いものは数限りないように思うが、ヒトにあって犬に無いものはそう多くはない。その一つが言葉なのだとすれば、それをフル活用して犬がするようなコミュニケーションを取れれば、切なく苦しい両片思いは減るのではないか。
その切なさをじっくり味わえるのもヒトの特権だと言われればそれまでだが。
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