コラム『家族だって他人』第31回 家族を始めること
現在、日本では、未婚の30代の4人に1人は結婚願望がないのだと言う。この数値を高いと感じるのか、妥当と思うのかは人それぞれ・・・というか、「結婚願望」と尋ねている時点で、正直なところ、若干の時代遅れ感がある。日本は同性婚も夫婦別姓も認めない、先進国では稀有な国なので、そこで「結婚」をしたいか?と問うこと自体の意味を考えなければいけない。とは言え、指標を変えると過去のデータと比較できなくなるので、仕方ないのだが。
私自身を振り返ってみても、「結婚願望」なるものを抱いたことは一度もない。10代の後半から、結婚よりも、生涯続けられる仕事や、子どもの方が欲しかった。今でも、人生を共にするパートナーは大切だと思うが、それが「結婚」というカタチを取っても取らなくても、いいと思う。積極的に結婚制度に反対しているわけでもないので、相手が望めば結婚するし、望まなければ事実婚でもなんでも、自分たちに合うスタイルが見つかればいい。そんな風に思っている。
でも、曽祖父母、祖父母、そして私の両親たちも営んできた夫婦という関係、つまり、自分の人生におけるかなりの長い時間を、自分以外のもうひとりと、共有し続けることには、とても興味がある。
私の父方祖父母と母方祖父母は非常に対照的なカップルだった。片方は本当に仲が良く、いつでも一緒で、片割れをなくしたときに残された方の悲嘆は見ていて痛々しかったが、残された方が生き残るために支えたのもまた、先に旅立った伴侶の存在だった。
「お祖父ちゃんがそばにいる気がするから寂しくない。今でも夢でよく喋るんだ」
と生前祖母は話していた。もう片方の祖父母は子供の目から見ても仲が良くないのは明らかで、祖父が亡くなってからの方が祖母は元気で楽しそうだった。どちらもお見合い結婚で、結婚するまで実際に相手に会ったことはなかったと思う。
私の両親は、私達が子どもの頃は喧嘩も多く、別段仲の良い夫婦だと思ったことはなかったが、色々と苦難を乗り越えて、子どもたちも全員巣立った今は、二人で仲良くウォーキングをしたり、近場の温泉に旅行したり、晩酌で仲良く缶ビールを半分こしたり、と穏やかに楽しそうに暮らしている。若い頃の喧嘩は、「子育て」というハードな仕事のせいで、余裕がなくなって起きていたことなんだろうな、と今になって理解する。
祖父母や両親や、その他たくさんのカップルを見ていて思うのは、「結婚」というのは、ある種の覚悟を持って「家族を始める」ことなのだ、ということだ。良いときも悪いときもある。嬉しいこと、楽しいこと、辛いこと、苦しいこと、そして数え切れないくらいの普通で、当たり前で、どうでもいいこと。そういうことの積み重ね全部を夫婦の歴史として、途切れさせずにつなげていくこと。その途中で家族は増えたり、育ったり、家を出ていったり、形を変える。
その始まりが結婚で、始めることには、覚悟と勇気(とおそらく勢い)が必要だが、それを続けていくには、愛情や、思いやりや、忍耐や、冷静さが必要だ。そして、長く続けた者にしかわからない何か(今の私にはそれが良いか悪いかもわからない)があるような気がする。正直カウンセリングをしていると、どうして別れないんだろう?と思うカップルに出会うこともあるが、長く話を聞いているうちに、それがこの夫婦のあり方なんだな、と納得させられる事になったりする。
だから私は今、家族を始めること、続けること、そしてその先に見える世界にとても興味がある。ひとりでは決して見ることが出来ない景色を、伴侶と一緒に見るために、一歩一歩進んでいくことに価値を感じる。
そして、「結婚=家族の始まり」にはやっぱりいろんな形があっていいと思うのだ。一対の男と女しか家族を始められないなんてことはないと思う。同性でも、血の繋がらない親子でも、家族を始めることが出来るようになればいいのに。続けられるかどうかは、本人たち次第なのだから。
(文責:M.C)
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