コラム『家族だって他人』第13回 家族の記憶
たまには、自分の家族のことを書いてみようと思う。小さいころから記憶力は良い方で、幼いころの自分の記憶には、悲しいものや辛いものもいくつもあるのだけれど、楽しいものや優しい気持ちになれるものも、同じくらいたくさんある。
例えば、父に叱られたときの記憶。父は私の頭にげんこつをするとき、私の頭の上に自分の手を置いて、その上からげんこつをした。頭に鈍い振動が伝わると、父の手の方が痛いんだろうな、と子ども心に思った。叱られた内容は覚えていないのに、父の愛情を感じたくすぐったい気持ちだけはよく覚えている。諭して分かる年齢になってからは、げんこつはもらわなくなったので、それはごくごく小さいころだけの、なんだか不思議な記憶だ。
それから、母が公園で、自分が子どもの頃にしていた遊びを教えてくれて、私の友だちも一緒に、とっぷりと日が暮れるまで遊んでくれた記憶。普段は怒っていることの多かった母が、怒らずにたくさん遊んでくれた、楽しくて、満ち足りた気持ちの、幼かった私。
保育園に行く前に、朝ご飯がなかなか食べ終わらなくて、母がイライラしていると、母が席を立った隙に、祖母が「お祖母ちゃんがご飯食べてあげるから、みわは味噌汁食べちゃいな」と言って私のご飯をこっそり食べてくれたこと。その後の祖母のいたずらっぽい顔と、こみ上げてくるくすくす笑い。今思えば、全然隠せていなかったかもしれないけれど、私と祖母の小さな嘘を見逃してくれた母。
父と母が喧嘩をして、家の中が最悪な雰囲気のとき、私の部屋に妹や弟が集まってきて、お父さんとお母さんが離婚することになったら、お姉ちゃんと暮らす、と言われたこと。責任が重すぎるが、仲の良い妹弟がいることは、当時も今も心強い。
家族を、家族たらしめているのは、こういう記憶の積み重ねではないだろうか。たくさんの良いことや辛いことを共有して、誰よりもお互いを理解して、年月を積み重ねてきたという記憶が、もともとは他人だった夫/妻を、他の誰かに置き換えられない特別な存在にする。反抗期の子どもの悪態に耐えられるのは、生まれたときの感動や、たくさんの「初めての〇〇」の記憶があるからで、日々親として子どもと向き合ってきた年月があるからだ。
そして「今日」もいつか記憶の一部になる。これまでの積み重ねを失敗だと感じていても、それを嘆いたり、諦めたりする必要はない。今日も、明日も、明後日も、未来の自分の記憶の一部になるのだから。そうやって、遠い未来を想いながら今を生きていくことが出来たら、もう少し今を心穏やかに、あるいは充実させて、生きることが出来るんじゃないだろうか。
記憶は本来過去に起きた出来事についてのことで、過去は変えることが出来ない、というのが常識だが、「今、未来の記憶をつくっている」と考えれば、いい記憶になるように行動することが出来る。
私が自分の家族のためにしたいことは、いつか私が傍にいられなくなったときに、私についての記憶が、家族の心を温めてくれるようにすること。未来で、家族の誰かが「独りぼっち」と感じるようなことがあっても(そんなこと起きてほしくないけど)、私に愛されたという事実が、しっかり記憶に残るようにしてあげること。まあ、私がいなくなる予定は全然ないんだけれど、子どもは巣立っていくものだし、家族のカタチは流動的だからね。そして、私に愛された記憶をもとに、別の誰かを愛して、新しい家族をつくってくれたら嬉しいけれど、そうじゃなくても、幸せでいてくれたら、それで十分。
そう思いながら、私は今日も、家族の記憶を紡いでいる。
(文責:M.C)
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