リレー書簡コラム『拝啓、みこと心理臨床処 様』第16回「意外性の模索」
最近、ニュースでもSNSでも何かと話題のチャットGPT。AIによる人工知能が色々答えてくれるシステムなわけだけれども、こういうのが意外と私は好きである。それこそ、昔流行ったおしゃべりロボット「ファービー」なども結構、楽しんだのを思い出す。このロボット、今だとリズモに近いのかしらと思ったりしつつ。
そういうわけで、チャットGPTも出来れば、使ってみてから感想を書きたいところなのだけれども、残念ながらユーザー登録しないといけないのが手間というか少し嫌なので使っていない。何となく、外側から眺めているだけだ。
その程度の知識で話しをするが、こういうAI知能と会話をするのは、最初は楽しい。しかし、ある程度すると私は大体、飽きてしまう。その飽きてしまう要素は何かと考えてみた。
1つは定型化された受け答えが、徐々に予測できるようになってしまうから。知識は随時更新されていくのかもしれないけれども、それだけでは何となく飽きてしまう。
2つ目は、学習機能がついているため、自分の会話や指示によって恣意的にAIが成長していくように見えること。自分の思い通りとまではいわないけれども、何となく自分の望んだように変化していくことが、私はあまり楽しくない。
3つ目は、何だろう。その場のノリとでもいうものが感じ取りにくいことだろうか。いきなり、ここで音楽の話になるけれども、機械による正確なリズムを刻んだ音楽よりも、息の合ったバンド演奏にグルーヴを感じるのと同じような感覚とでも言おうか。お互いが会話している時に響きあう息づかいが、テンポの絶妙さが、楽しさを産むように思う。チャットGPTだと何となく、そのノリが掴みにくい気がするのだ。
と、ここまで書いてきて、気づいたが、私は普段の日常的な会話に対し、楽しさ、面白さ、関心の強さなどを重視しているようだ。そして、それらは、理性的なやりとりよりも、感覚的なやり取り、その場で即興的に生まれる空気、意外性、そういった偶発的なものによって生まれると思う。そんな会話の中に流れる空気感が私は好きなのである。
そして、その空気感は、似たものはあれど毎回、まったく同じものではない。だからこそ、飽きない。
ただ、感情のある人間なので、常に飽きない状況が一番というわけでもないのが、面白いところだと思う。疲れている時は意外性は要らない時もある。予想通りの反応を予想通りに欲しい。面白味はいらないから、ただただ心と頭の疲れとすき間を、同テンポで埋めてほしい。フラットにしていきたい。そんな時だってあるだろう。そういう時に、気心の知れた相手が傍にいてくれて話を聞いてくれるのなら良いかもしれないが、常にそういう状況とは限らない。そんな時に、チャットGPTの出番も、あるのかなと、思ったりもする。
(K.N)
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