リレー書簡コラム『拝啓、みこと心理臨床処 様』第15回「チャットGPT」
前々回のコラム文末で
「たとえどんな状況であっても、他責でも自責でも、膨大なエネルギーをうまく操れずにいる状態は辛すぎるなと感じる。
一人で孤独な世界に投げ込まれたままにならないよう、少しでも自分が一緒に寄り添い共にどうしたらいいか、考えられると良いのだけれど、と願わずにはいられないかったりする。」
『エネルギーの循環』文責K.N
と書かれていたのだが、思春期って、多かれ少なかれ、誰もがこんな感じじゃないかなーと思う。
アンジェラ・アキさんの 手紙~拝啓、十五の君へ~の歌詞にもある。
「十五の僕には誰にも話せない悩みのタネがあるのです
(中略)
今 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は
誰の言葉を信じ歩けばいいの?
ひとつしかないこの胸が 何度もばらばらに割れて
苦しい中で今を生きている」
アンジェラ・アキ『手紙~拝啓、十五の君へ~』
特別過酷な境遇の15歳じゃなくても、同じように感じることがあると思うのだ。膨大なエネルギーを上手く操れずにいる年頃。
大人から見たら、よくある悩みだったり、そんなに深刻にならなくても良いようなことでも、誰にも話せない、親にも友だちにも理解されない、と思い詰めたりする。どう生きていいか、自分は何者なのか、答えが出せずに苦しい気持ちになる。
四六時中そうかといえば、そうでもなくて、友だちとの雑談に興じたり、勉強や部活に忙しくしていたりする時間もあるのだが、ふとひとりになると、言いようのない不安や苦しさに襲われたりする。冷静になって周りを見渡せば、ちゃんと助けてくれる人がいるのに、自分のことを理解できる人なんていない、とある種の視野狭窄状態に陥って、ひとりで悩む。それが、精神的に大人になる過程で、少なからぬ人が通る道なのではないだろうか。
よくあることだから大したことない、ではなくて、だから思春期は大変なのだ、と思う。もし、もう1回15歳からやり直せるよ、と言われても御免被りたい。
そして、思春期の子どもたちに対して、大人は無力だなぁと思う。ここにいるよ、力になる準備はあるよ、と存在をアピールすることぐらいは出来るけれど、あとは本人が話に来てくれるのを待つしかないし、来てくれたとしても答えを見つけるのは本人だ。ただ、K.Nが言うように寄り添うことは出来たら良いなと思う。
さて、攻撃性の話が一巡したところで、新しい話題を。
最近流行りのチャットGPT。
本当に色々なことに答えてくれる。例えば「彼氏と喧嘩したんだけど、どうしたらいい?」みたいな質問でも回答してくれる。そしてそのアドバイスはものすごく冷静で的確。カウンセラーでも、アドバイスを求められたら似たような内容のことを、結果的に返すだろうな、と思う。
将来的に、これが人と見まごうような姿のアンドロイドに内蔵されて、普通に会話が出来るようになったら、カウンセラーという職業もなくなるんだろうか? と考えなくもないが、今のところ、大丈夫そう。 と思うのは、やっぱり人が悩んだときに求めるのは、他者に共感的に話を聞いてもらうことで、正論のアドバイスではないからだ。我々は、血の通った人間であること、が最終的な武器になる職業だと思うのだけど、お二人はどう思う?
もちろん、正解が知りたいときは、私よりもチャットGPTに聞いたほうがよっぽど良いだろうけど(苦笑)
で、その正解を知りたい、からの連想なのだけれど、このチャットGPT、大学生のレポートまで、書いてくれるらしい。私も大学で非常勤の講師をしているが、もし学生がチャットGPTの回答をまるまる写したレポートを出してきたらどうするだろう? それがその学生の、私の講義に対する返答だ、と思うと、なんとも言えない気持ちになる。自分で考えてレポートを書く気にならなかった授業。そんなもの、90分×15回も取る意味あったのか? と問いたくなる。それでもレポートを提出するということは、単位は取りたいのだよね。。。うーん・・・。
そして、これがもし、楽をしようとしたのではなくて、「間違ったことを書きたくない」という思いでチャットGPTに頼っていたら、もっと参る。間違ったっていいし、そもそも人生における殆どの問いに、明確な正解なんかないんだから。
人生で、正解を出し続けることなんて出来ないのに、正解には○、不正解には✕をつけられて大人になってきたから、いつも正解を出そうとし続けるのだとしたら、我々大人は、大いに反省しないといけない、と思う。
どんどん進むテクノロジーと、どんなふうに付き合っていくべきか。それも、現在の心理臨床家が向き合っている大きな課題ではないだろうか。
(M.C)
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