リレー書簡コラム『拝啓、みこと心理臨床処 様』第13回「エネルギーの循環」
「攻撃性」と言ってしまうとなんか、良い悪いの価値基準が付きまといそうだけれども、基本的には、対象に対し膨大なエネルギーを向けることの一つの形だと思っている。そう思うと、「愛」や「恋」や「やさしや」や「憎しみ」などの感情も相手に向けるエネルギーだろう。これらの違いは、なんだろうか? 鋭さだろうか。
と、考え始めると違う方向に行ってしまうので、「攻撃性」という他者に向かう膨大なエネルギーの話に戻ろう。
膨大なエネルギーのその対象が、他人になるのか自分になるのか、ということで他害、自傷とかわるのだと思う。
鬱傾向の人が、自責的になりやすいというのは、教科書的にも有名なわけだけれども、実際は、鬱傾向の人は、自分を責めるのと同じぐらい、もしかしたらそれ以上の熱量をもって、他者に対して怒りを持っていることがある。それをストレートに他者に向けられないことで、自責になっているように感じられたりする。
そう考えると、他責が自責に変わるスイッチがあるのか無いのかは分からないけれども、他責だけではなく、自責にもなる転換点を探す材料にはなりそうだ。
一つは、発達的な視点。自分のことを顧みるという視点が育たないと、本当の意味での自責は起きてこない。親しい大人や親などからの言われた言葉を、そのまま受け止めて「自分はダメだ」と思うことはあるだろう。しかし、それが、内的な意識に取り込まれて超自我となり、自分自身で「このようでは、良くない、こういう部分は~せねばならないのに、ちゃんと出来ていない」と考えられるようになってから、自分で自分を責めることが始まるのだろう。
もう一つは、他者への信頼感、もしくは期待という視点。安心感と言ってもいい。これが、失われた時に、他責は自責に変わるのではないだろうか。もちろん、攻撃性が発揮されるときというのは、危機的状況であり、安心感が失われそうだからこそ、相手に攻撃性を向けて、戦い自分を守るという側面もある。
しかし、現代の成長しきっていない子どもの場合、この攻撃性の多くは、親や先生、兄弟などの家族と身近な人に向けられる。先のコラム(攻撃性のスイッチ?)で書かれていたけれども、自分が強いから他者に攻撃性を向けられるのだということを考慮すると、自分は子供だという弱い立場なのに、なぜ大きな大人へ攻撃性を向けられるのか?
それは、そこに、形はどうであれ、自分は叱られることはあれ殺されないだろうという何かしらの安心感、甘えがあるからだろう。本当に自分が攻撃されてやられるという危機感があれば、その他者へ攻撃性は向かないはずだ。
だから、どんな形であれ、家族や身近な人に攻撃性が外に向くのは、攻撃する相手に対して、どこかで自分は大丈夫、きっと受け入れられると思っている。何なら、自分のことを「分かってほしい」という心の叫びが、外に向かった攻撃性になっていることもあるだろう。
こう考えると、他責が自責に変わる契機に、他責をした時点で、自分が攻撃される、まずいという気持ちが芽生えた時というのがありそうだ。あともう一つ、「分かってほしい」という叫びが、この人たちには絶対に通じないのだと、「諦めて」しまった時にも、その相手に攻撃性が向かうことが無くなるのだと思う。
そして、行き場を失ったエネルギーが自分を責めることに向かっていくしかなくなるのだ。ただ、自棄になってしまった場合に、相手に攻撃性を向けながら自分も破滅していくという行動になってしまう場合もあると思う。
自責と他責。混在する場合は、一つの心の成長であり、内外に向けた心の叫びであるかもしれない。
一方で、周りの大人を、自分自身を、自分を取り巻く世界を信じられなくなって自棄になった結果かもしれない。
そんなことを思う。同時に、たとえどんな状況であっても、他責でも自責でも、膨大なエネルギーをうまく操れずにいる状態は辛すぎるなと感じる。
一人で孤独な世界に投げ込まれたままにならないよう、少しでも自分が一緒に寄り添い共にどうしたらいいか、考えられると良いのだけれど、と願わずにはいられない。
(文責:K.N)
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