リレー書簡コラム『拝啓、みこと心理臨床処 様』第14回「知らないものは探せない」
お二人、お返事ありがとう。
そうか、年齢によっても違いますよねえ。私は幼児さんや小学生を念頭に置いて書いていたからそこまで考えが及ばなかった。その分、何だかぐるぐるしています。
見通しが立つこと、甘えと諦めと、成長と叫び。
自傷はその人のボディイメージや身体感覚とも関係あるだろうし、他害は他害で自他境界の曖昧さとかその辺の不安定さもあるかもなあとか、色々考えてしまいました。自傷も他害も決して薦められたものではないけれど、その人の中に誰にも聞き届けられない何かがあって、それが源になっているのかなあなどとぼんやりと。
そうは言っても大人と子どもの間には攻撃の結果にも意味にも隔たりがありますよね。
そしてそのひとつは、攻撃の源に心当たりがあるかないか、だと思うのです。自省は大人だけができる芸当だと思うのですが、それは何故かと言えば、自省するにはある程度自分や他者と付き合い、向き合い、自分の輪郭をなんとなくでも掴むことが必要ですから。何かと向き合うには、向き合う相手と分かれていることが大切ですが、子どもはいろいろなことが未分化です。
自分と親、自分と他者、感情と言葉、感情と行動。それらが分かち難く結びついていて、そしてそんなふうに色々なものが結びついていることを本人は知らない。つまり、攻撃性の源を探ろうにも、探る先を自分では掴みきれないのが子ども。そして、大人であろうと子どもであろうと、知らないものは探せない。
つまり、自制/自省を促すには、素地が必要だと思うのですが、どうでしょうか。
だからまず、子どもの攻撃性に気づいた大人は順を追って丁寧に、子どもに自分や他人との付き合い方を教えなくてはならない。けれど、いつでも誰でもどこででもそれができるとは限らない。何なら教えるはずの大人が怒りに振り回されていたり、子どもが見せる攻撃行動に気圧されて、過剰反応を起こしたりすることもあるのでね。その辺り、大変悩ましい。
そんなことを考えていると、やっぱり教育と心理は似て非なるもののように思います。
自分の中の攻撃性に気づき、飼い慣らすために必要なのは、自分を知ること。
これを前提に、子どもにもわかるようにあらかじめ攻撃性の危険さについて教えるのが教育で、個々の攻撃性について察知した時点でその意味を吟味し、感情の器を子どもと共同作業で作り上げるのが心理なのではないかなとふっと思ったのですが、どうでしょうか。
こう考えると、教育とはやはり子どもが社会的規範を学ぶのに必要な営みでしょうし、その中では「ならぬものはならぬ」と言い切る押しの強さが必要で、我々心理は規範から外れていることは承知しつつもその内容や意味について検討するのが仕事なんじゃないかなあと。
さらに、個人的にはこの差異を教育者に伝えて共有するのって難儀なことだなあと思うことが多いんですよね。難儀な仕事は嫌いじゃないけど得意でもないので毎度毎度同じようなことで悪戦苦闘しています。
話がそれました。
子どもだろうと、大人だろうと、攻撃性は無くならない。器ができたり、方向が定まったり、健康的な形で昇華したり様々ではありますが、色や形を変えてその人の中にある。それを嫌悪するでもなくけしかけるでもなく、ただ安全な扱い方を考えたいものだな、と思うのです。
(C.N)
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