『ある雨の日に』
雨音と言えば、「ショパンの調べ」という歌のタイトルがすぐに出てきてしまう年代なのですが、今、このコラムを読んでいてご存じの方はどのくらいいらっしゃるのかなと思いつつ、このコラムを書いています。
私は、そこまでクラッシックに通じていない人間なので、ショパンを連想するとその流れで思い出すのは、ラ・カンパネラを弾くピアノ奏者のフジコ・ヘミングです。
私は、生演奏で聴いた、フジコ・ヘミングのラ・カンパネラがとても気に入っています。
他のピアノ奏者の方で、素敵なラ・カンパネラを弾く人ももちろんいます。聴いた時にすごい、うまいと感じます。その音は、自分の頭と耳や体にも響いてきて、とても素晴らしいと思います。ただ、フジコ・ヘミングのラ・カンパネラを聴いてしまってからは、なんか全然違う曲に聴こえるような不思議な感じになるのです。
なぜかはよく分かりませんが、自分の心に直接響いてきて、なおかつ何とも言えない余韻を残し、また聴きたいなと思うのはフジコ・ヘミングの弾くラ・カンパネラでした。曲なのにストーリーを感じるというか、とても細くて美しい光のような希望を感じるというか。
難しいことは、あまり自分には分からないので、いつも私が音楽を聴くときに大事にするのは、自分に響いてくるか、こないかという基準だけです。
フジコ・ヘミングのコンサートに行ったときに面白いなぁと感じたのは、この曲も良いなと思うこともあるのはあれど、そんなに響いてこないなという曲もあり。人が曲を選ぶのか、曲が人を選ぶのか。不思議な感じですね。
作品を見る時に、その人の人となりとか人生とか、実はそれほど私は重視していません。なぜなら、作品はやはり、純粋に作品としてみたいというか、解釈する側が、どう解釈し感じるか、どんな思いを乗せてみるかは自由で良いかなと思うからです。
逆に、その作品を作った人、作者について思いを馳せる時は、その人の作品はあくまでも付属物となり、こういう作品を作るこの人は、どんな生き方をし、どんなことを考えているのか、という「人」を中心に考えてしまいます。この人がどんな思いで作品を作ったのか? どんな気持ちで弾いているのだろうか? と。
作品ではなく、演奏ではなく、それらを生み出す「人」の方に、気持ちがいくと、それはそれで色々考えてしまって、純粋に音を楽しめなくなってしまうのは、はてさて職業病でしょうか?
なんてことを思いつつ、今回のコラムは、フジコ・ヘミング氏の訃報を知り、その追悼番組を見た後で書いています。
良い音は、人が亡くなったとしても残るのかな。 でも、やはり音源ではなく生の音で空気を震わし、自分の身体と心に届く音をまた、聴きたいなと、願わずにはいられません。
哀悼の意をここに、表して。
(文責:K.N)
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