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HOME > コラム(note)のページ  >連載コラム『心たちのすることは』第5回

『心の宿るところ』


先日、今年度の大学での講義が全て終わった。私の講義は自分で言うのも何だがそこそこ特殊で、学生たちに正解を与えない。正解と正解のぶつかり合いがこの世界を構成している、と担当講師(つまり私)が考えているからだ。

人の心に万人共通の法則や正解があるのなら心理学などいらない。よってノーベル文学賞はあってもノーベル心理学賞は絶対にないと私は思っている。葛藤こそが人生であり、心ではないだろうか。

という講師の暴論のもと、毎度毎度、正解のない問いに挑まされた学生たちは少々気の毒ではあるが、タフな問いに一定の目処をつけて自分なりの答えを見つけていけるのも学生という時間と体力がある身分だからこそであると私は思っているので、手は緩めない。

どんな問いを投げるかと言えば、その人にとって

「老いる」とはどういうことか

「正しい」とはどういうことか

「優しい」とはどういうことか

「強い」とはどういうことか

というようなものである。

これらについての正しい答え?そんなもの私だって持ち合わせてはいない。
しかし学生たちが出した仮の答えを聞き取って、翌週リアクションとしてそれらの意見を紹介し、文字通りの答え合わせをするうちに、学生も私も、自分の蒙が啓かれていくのを感じる。とてもスリリングでエキサイティングな時間である。

人の心はその時々によって容易く変わる。それを踏まえての仮の答えであることを、私も彼らも知っている。それでも何とか言葉を紡いで見ることが大事なのだと思う。

さて、そんな問いの中でふと、心はどこにあると思うか、という問いを繰り出してみた。問いの出し方はこうである。

例えば英語には、heart, spirit, soul, emotion などなど、「心」に関連する言葉がたくさんあるし、日本語にも、心、魂、精神などがある。そして心とは心臓の「心」であり、中心の「心」としても使われている。これを踏まえて、心のありかをどこだと思うか。

これに対する答えが大変面白かった。

 最近の心理学徒らしく「脳にあると思う」という人も多かったが、オーセンティックに「心臓にあると思う」という人、面白いところでは「体全体」という人もいて、やはり心については一筋縄ではいかないのだなあ、と感心させられたし、これらの答えと合わせて、私の感想も伝えた。

 さてここで、同じ問いをもう一度考えてみよう。心はどこにあるだろうか。人に心があるとして、それと同質のものが動物にもあるだろうか。植物には?

かつてシェイクスピアは「私の魂は空にある」と言ったらしい。この言葉の前後の文脈はわからないが、では彼の心はどこにあったのだろうか。
彼の心、となると、日本語の言い回しとして少々ややこしくなってくる。
彼の、私の、あなたの心、というような「誰かの心」なると「心ここに在らず」と言われたり「心がこもっている」と言われたりするような手触りのある「心」となる。

どうやら日本語では、心は存在し、動き、伝わったり込められたりするものとして捉えられているようだ。

というふうにつらつらと考えていくと、どこにでもあり、どこにあるかわからないのが心、というのが、私が今回出した「心のありか」についての、仮の答えとなる。

次回同じことを考えてみたとしても、同じ答えになるとは限らないので、悪しからず。

心とはそういうものではないかと思うので。

                   (C.N)



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