『「またね!」の呪文 』
卒業シーズンである。
今は昔、竹取の翁というものありけり。
といきなり言い出すほど昔ではないが、自分が学生の頃は、携帯などまだあまり持ってない時代だったので、卒業するということイコール、仲が良かった友達と連絡が取りにくくなり、なかなか会えなくなる、ということが結構あった。
そんな卒業時に交わされる「また会おうね」という言葉には、やや強い意志を感じさせるものがあり、逆にもっと、簡単に会えなくなってしまうのだなぁという寂しさを感じたものである。
しかしある時、皆で会える最後の日に、日々の中で言い合っていた「じゃ、また明日ね」といういつも通りのトーンで、「バイバイ~。またね!」と言いながら、各々の家路に向かって別れたことがある。その言葉の軽さといつも通りさに、あ、また会おうと思えばいつだってすぐに会えるのだという、物理的な距離ではなくて、心の距離の近さを感じて温かい気持ちになった記憶がある。
こういう時の心というのは、ものすごい。物理的な距離も、時間という距離も物ともせずに、相手を近くに感じるということが出来るのだから。
逆に、物理的に近くにいても、相手との間に険悪な空気が流れていれば、いや、そんな空気すらないぐらい他人であれば、心の距離は果てしなく遠く感じるだろう。
現在は、LINEをはじめとしたSNSやスマホがあるので、たとえ物理的な距離が離れても、連絡が取りやすく、常につながっていられる時代になった。こうなってくると、心の距離感などというのは、意識する間もなさそうだなと思う。目に見えない距離は、目に見える文字で埋められるのだろうか? 色んな毎日の中で積み重ねられた「またね」という言葉から生まれた信頼感や安心感と同じだけの質量に追いつくのか、追いつかないのか。
などと、心の距離に思いを馳せつつ、時々考えてしまうことがもう一つある。
よく、時間が経てば忘れる、色々な気持ちも色褪せていく、なんて言われるけれど、それってほんと? ということである。
私たち、言うほど、昔の気持ち、覚えてないのだろうか?
思い出してみたら、あの時の楽しい気持ちや、悲しい気持ち、嬉しかった気持ち、幸せだったこと、悔しかったこと、ドキドキしたことを、意外と、鮮やかに感じるんじゃないかと思う。
私たちの普段感じる気持ちというのは、時間が経つと、色褪せるのではなく、自分自身で、思い出したり思い出さなかったりとコントロールできるようになっていくということのような気がする。逆に、思い出せなくなっていくというのはあるのかもしれないけれど。思い出せないんじゃなくて、新しい体験や経験が増えて、慣れてしまったり、差が無くなってしまっているだけかもしれない。
そう考えると、意外と覚えていて忘れない記憶と気持ちがあるからこそ、私たちは、それを自分で扱えるストーリーにする必要があり、振り返り、心の中に収める作業が必要になる時があるのだろう。
そのために、物語を書いたり、音楽を作ったり、絵を描いたりする芸術があり、また誰かに語って、一緒にそのストーリーを生き直すためのカウンセリングがあるように思う。
「じゃあ、またね!」と、その時の記憶と気持ちにお別れをしつつも、またいつでもすぐに会いたくなったら、会えるようにするために。
そんな呪文を皆が、各々のやり方で使いたいときに使えるようになると良いのになと思う。
(K.N)
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