関係の熟し方
さて、6月も半ばである。祝日が1日もないことで有名な6月。ここまで乗り切ってきた自分と読者の皆さんに、賞賛を贈りたい。今六月ということは、あと半月で2025年も後半に入るということだが、この時期必ず私に訪れるお馴染みの違和感がある。
おかしい。新しい年が明けたのはついこの間ではなかったか。
そうは思っても、この春新しく始まったことどもは、例えていうならノリが効いてパリッとした感触だったのが、少しずつ心地よく柔らかい手触りになってきたような気がする。からころもきつつなれにし、と詠んだのは在原業平だったか。慣れ親しんだ人との関係を詠じた歌だが、関係の変化というと私は布よりも発酵の方がピンとくるのだ。
醤油に味噌、日本酒、ワイン、チーズ。我々の周りにあるたくさんの発酵食品は、時間をかけていくつもの工程で繊細な管理をされながら熟成していく。それに加えて仕込んだ土地の環境や気候のあれこれを経て生まれるものが我々の味覚を楽しませてくれるのだが、その様子が人間関係の変化と似ているように思えるのだ。
関係は人が知り合ったときから始まる。しかしまっさらな関係でいる時間は一瞬で、関わりが長く深くなればその質は環境の作用や互いの行動や目論見、思いなどが添加されてどんどん変わっていく。その様子はまるで発酵のようではないか。
きょうだいであれ夫婦であれ親子であれ、ずっと同じ関係性を保っていくことは難しい。特に夫婦は、時にライバルに時に敵のようになり、時には恋人に、時には歴戦の同志の様に成ることもあるだろう。そこに互いの両親や子ども、ペットやコミュニティなどいろいろなものが加わって、関係は熟していく。
さてここで、移り気な私は発酵と腐敗の違いについて言及したくなってきた。
人間に利益をもたらす微生物の働きによる変質を発酵、逆に人間には利益のない変質を腐敗というのだそうだ。大変わかりやすい。
しかし関係の腐敗と発酵は、見分けるのが実に難しい。腐敗した人間関係はやがてじわじわと周囲を毒して行き、人を悩ませることで初めて腐敗だとわかる。関係の相互作用の只中にいれば尚更だ。人間関係において明らかに不健康と思われるのは、おそらく片方のみが一方的に傷つき疲れているものだと思うが、それ以外はどうだろうか。
たとえば夫婦の関係において、両者が共に傷ついていたらそれは腐敗と発酵過程、どちらなのだろうか。もし発酵を腐敗と見誤って捨て去ってしまえば、きっと後悔するだろう。
しかし幸いなことに、復元できなくても修復できるのが関係のいいところだ。腐り切ってしまったと嘆いて捨て去る前に、修復を試みるのも一考である。
関係の熟し方に不安があったり、腐った関係が放つ毒で傷んだ心を癒すのも、我々心理職にご相談いただければと思う。
(C.N)
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