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映画「ANORA」


 2025年のアカデミー 作品賞、脚本賞、監督賞、編集賞、主演女優賞に輝いた話題作、映画「ANORA」を、遅ればせながら見てみた。(※ 以下に映画のネタバレが含まれます。)


ご存知の方も多いだろうが、大まかにあらすじを紹介しておこう。

主人公のアノーラはニューヨークのストリップダンサー。客として店に現れたロシアの大富豪の息子ヴァーニャと1週間15,000ドルで、彼女になる契約をし、1週間の最後にラスベガスで衝動的に結婚する。当然、それを知ったヴァーニャの両親はふたりの結婚に大反対、というのが筋書きだ。

この筋書き自体はそんなに新しい感じもなく、私などは「プリティー・ウーマン」(1990 主演 ジュリア・ロバーツ,リチャード・ギア)の現代版かしら?と思った。

ところが、「ANORA」は「プリティー・ウーマン」より、全然リアルで、夢がない。

正直に言って、私は登場人物の誰にも感情移入できず、心揺さぶられることもなく見終わったのだが、よく描けているなぁと関心はした。

大人から見ると、アノーラもヴァーニャも、未熟で浅はかで自己中心的で、見ていて応援しづらい。ヴァーニャとの対比でマシに見えるアノーラも、基本は刹那的に生きており、ものごとを深く考えたりしない。むしろ、考えないようにして、自分に都合よく解釈することで、不安や絶望を遠ざけているのかもしれない。

テレビゲームに興じるヴァーニャにしがみつくようにして一緒にソファに座っているアノーラは、ヴァーニャとの結婚生活という、全く実体のない幸せにしがみついているように映った。

「プリティ・ウーマン」は、賢くてやり手の実業家、つまり能力も財力も権力も持ったエドワードという王子様に見出されて、娼婦ビビアンが美しい淑女に変身していくシンデレラストーリーだが、「ANORA」には王子様は出て来ない。ヴァーニャは金持ちの息子であって、彼自身が持っているものは無いに等しい。しかもヴァーニャはアノーラを愛したりしない。それはヴァーニャの振る舞いからありありと分かるが、最後にヴァーニャ自身の口から「エスコートガールと楽しんだだけ」と言い切られることで、アノーラにとっても目を逸らせない事実となる。

繰り返されるアノーラとヴァーニャのセックスシーンも、ただただヴァーニャが性欲発散しているだけで、アノーラの側には快楽も満足もないお仕事セックスである。

それを見てヴァーニャが酷い、と責めることは出来ない。なぜなら、ヴァーニャが差し出しているのがお金だけであるのと同様、アノーラもセックスしか差し出していないから。そういう意味では釣り合いがとれたカップルである。

ストリップダンサーのアノーラにとって、男はみんな自分を性的な対象としてしか見ていない。自分は金で買われる身だが、男はみんなセックスしたいだけでしょ、と男を馬鹿にしているし、嫌悪してもいる。男の人にも色々いる、という真っ当な指摘がアノーラには通用しないのは、彼女の生きている世界には、性的な対象として以外で彼女を見てくれる男は存在しないからだ。

そして、いつの間にか、自分を性的対象としてしか見ない男たちの価値観を内在化し、アノーラ自身もまた、男たちの性的対象としてしか振舞えなくなっている。そこが、哀れで悲しい。このセックスワーカーの悲哀はニューヨークでも東京でも変わらないんじゃ無いか。もっと言えば、自分の価値を性的な魅力にしか見出せない女の子たちが、共有する悲哀かもしれない。

自分の価値を、性的な魅力だけに置くことは、自分や他の女性を、「男がセックスしたくなる女かどうか」で測ることになる。そうすると、必然的に見た目の美しさや色気に比べて、思想や知識の価値が下がり、人としての深みがなくなる。そういう女性は、同性に嫌悪され、女性同士の分断を生む。男も敵だが、女も敵になるのだ。

そして、年を取ると、必然的に性的魅力は落ちていき、どんどんと価値のない存在になっていくので、「今」が良ければ良い、という刹那的な生き方になりがちなのもうなずける。

なんて残酷なんだろう・・・

このセックスワーカーのリアルを、ポリコレの嵐が吹き荒れる現代に正面から描いてコメディにしてしまうのが、ショーン・ベイカー監督の力量なのか。彼の他の作品も見てみたくなった。
                  (M.C)  
          

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