その場所を離れても
みこと心理臨床処の緑化委員を買って出て2年目である。緑化計画は良い感じに進み、少しずつ季節の花を生けられるようになった。先日まではフリージア、今はスイートピーが見頃で、種から育てて来た身としてはとても嬉しい。秋まきの草花たちは寒い冬を共に越えているせいか美しさも3割増に見える。
と同時に、花栽培のプロの仕事にも感服してしまう。花の美しさというのは幾重にも重なっていて、中でも花のボリュームと姿勢の良さはとても大切なのだということが分かる。お花屋さんの軒先に並ぶ姿美しい花たちは、プロの手によって仕上げられた、いわばエリートだ。
考えてみれば、花にまつわる世界には色々なプロがいる。種苗屋さんや栽培家、花屋もそうだし、華道家もそうだ。それぞれが花の美しさを最大限広げるために、それぞれの仕事を全うしているのだと思う。花をその花らしく美しく育てるプロセスには、見る側にも色々な楽しみがあって、その多様な楽しみは日本の分業制志向がもたらす、一つ一つの仕事の華麗さを彷彿とさせる。例えば着物や刀などの制作は細かい分業によって成り立っていて、そのどれもが見惚れてしまうような仕事をするのだが、それと似ている。出来上がったものたちの美しさや凄さが、細かい知識のない素人にも伝わることも共通していると思うのだが、どうだろうか。
様々な人から手をかけられた花は圧倒的に美しい。素人目にも印象に残る美しさだ。知識を得ると解像度が上がって別の感動が生まれるけれども、それがなくとも目に心に楽しい。それが花だと思う。切り花も美しいし鉢植えも華やかでかわいい。種から育っていくのを見守るのも楽しいし、樹齢をかさねた木が咲かせる花は、幽玄ですらある。
が、実際に育ててみると、それらの美しさの裏に、植物たちのしたたかな生存戦略を感じることがある。置かれた場所で咲く花ももちろんあるが、そこが成長に適さない場所であれば、逃げるように遠くまで種を飛ばす。
星の王子さまに登場する薔薇の花は、草花を育てる経験無しに読んだ時にはなんてわがままで哀しい生き物なんだろうと思ったものだが、今読むとあれは植物として正しい姿であるように感じられる。
ところで昨秋、種を播いたのに全く発芽せず「これはもうダメだな」と判断した種を、住んでいるマンションの生け垣に土ごとあけた。それで終わりだと思っていたら、この春ふと見ると、私が播いたのと同じ種類の花が見事に咲いている。もしそれが私の仕業だとすると、植物とはなんとタフでちゃっかりしているのだろう。私の手元にあった時には発芽もしなかったくせに、そこから飛び出たら心置きなく葉を茂らせ、のびのびと花を咲かせているなんて。こちらとしてはしてやられた気持ちである。自分の発芽に足る環境かどうか、小さな種にきっちり刻まれていたということか。悔しいけれどそれ以上に感嘆してしまう。
その花は確かに置かれた場所で咲いていたが、そこは置かれた場所であると同時にその種が選んだ場所でもあるのだなあと思った緑化委員である。
(C.N)
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